対話の羅針盤

歴史史料に内在する感情・意図とAI/LLM:史料「対話」の質的変容を探る

Tags: 歴史学, 史料分析, AI, LLM, デジタルヒューマニティーズ

はじめに:歴史史料の感情・意図を読むという営み

歴史研究において、史料に記された出来事や事実関係を把握することと同様に、あるいはそれ以上に重要となるのが、記述者の感情や意図、その背景にある思惑を読み解くことです。史料は単なる情報の器ではなく、それを生み出した個人の意識や、当時の社会・文化的な文脈が織り込まれた複雑なテクストです。歴史家は、史料の字句の背後にある「人間」に迫ろうと、記述者の言葉遣いや表現のニュアンス、文脈、さらには史料が置かれた状況などを丹念に分析してきました。これはまさに、過去の記述者との深い「対話」に他なりません。

しかし、この「史料との対話」は、高度な専門知識、経験、そして膨大な時間と労力を要する営みです。また、史料が断片的であったり、感情や意図が曖昧に表現されていたりする場合、その解釈は困難を極めます。近年、AI、特に大規模言語モデル(LLM)の発展は目覚ましく、自然言語処理(NLP)の技術はかつてないレベルに到達しています。これらの技術が、歴史史料に内在する感情や意図の分析にどのような可能性をもたらし、そして歴史家の「史料との対話」をどのように質的に変容させるのか、本稿ではその展望と課題を考察します。

歴史学における感情・意図分析の歴史的試み

歴史学において、史料から人間の心理や意図を読み取ろうとする試みは古くから存在します。古典的な史料批判は、記述者の立場や目的を見抜き、史料の信頼性を評価する手法であり、その中には記述者の意図を推測する側面が含まれます。より体系的な試みとしては、20世紀後半に隆盛した「心理史学(Psychohistory)」が挙げられます。これは心理学、特に精神分析の知見を用いて歴史上の人物や集団の行動原理を理解しようとするものでした。

また、近年注目されているテクストマイニングや、より広範なデジタルヒューマニティーズの分野では、統計的手法を用いて史料中の単語の頻度や共起関係などを分析し、記述者の関心事や特定の概念への態度を客観的に捉えようとする試みが行われています。しかし、これらの手法は、感情の機微や複雑な意図といった人間的な側面を捉えるには限界がありました。感情や意図は、表面的な単語だけでなく、文脈、語調、省略された情報、あるいは「沈黙」の中に隠されていることも多いからです。歴史家は、これらの要素を総合的に判断することで、史料の多層的な意味を読み解いてきたのです。

AI/LLMによる感情・意図分析の可能性

近年のAI/LLM、特にTransformerアーキテクチャに基づくモデルは、膨大なテキストデータで学習することで、人間の言語が持つ複雑な構造、多様な表現、そして文脈に応じた意味の変化を理解する能力を飛躍的に向上させました。これらの技術を歴史史料の分析に応用することで、以下のような可能性が考えられます。

  1. 大量史料の横断的分析: 数百万、数千万語に及ぶデジタル化された史料データに対し、特定の感情(喜び、悲しみ、怒りなど)や意図(説得、情報提供、命令など)を示す表現を高速に抽出・分類することが可能になります。これにより、特定の時代や集団において、どのような感情や意図が、どのような状況で、どのような言葉を用いて表現されたか、といったマクロな傾向を客観的に把握できます。これは、一人の研究者が手作業で分析できる範囲をはるかに超えるものです。
  2. 表現の多様性とニュアンスの識別: LLMは単語だけでなく、フレーズや文全体、さらには段落間の関係性から感情や意図を推測する能力を持ちます。例えば、同じ「嬉しい」という感情でも、史料によって様々な表現が用いられている場合(例:「忝けなし」「慶賀に堪えず」「心躍る」など)、これらの多様な表現を識別し、背後にある感情を推定するのに役立ちます。皮肉や比喩といった、文字通りの意味とは異なる感情・意図が込められた表現の識別精度も向上しつつあります。
  3. 記述者間の比較分析: 同じ出来事について異なる人物が記した史料を比較する際に、それぞれの記述に込められた感情や意図の違いを分析し、その人物の立場や視点をより深く理解する手がかりを得られます。例えば、外交文書において、同じ交渉結果に対する異なる国の担当者の記述を分析することで、それぞれの国の感情や今後の意図を推測することが考えられます。
  4. 「沈黙」の分析への示唆: 史料に「書かれていないこと」も歴史研究においては重要です。なぜ特定の感情が記されなかったのか、特定の意図が伏せられているのか。LLMによる網羅的な表現分析の結果は、むしろ「通常であればここで言及されるべき感情や意図が欠けている」という洞察を研究者にもたらし、「沈黙」が持つ意味を考えるきっかけを提供してくれる可能性があります。

課題と歴史家の役割

AI/LLMによる史料の感情・意図分析には、大きな可能性がある一方で、歴史家が深く認識しておくべき課題も存在します。

  1. 文脈理解の限界: AIは学習データ内のパターンに基づいて分析を行いますが、歴史史料は特定の時代、文化、社会構造、そして個人の極めて特殊な文脈の中で生まれます。AIがその史料固有の深い文脈、特に現代の言語感覚とは異なる過去のニュアンスや比喩、隠語などを正確に理解し、感情や意図を適切に読み取れるかは依然として不確実です。例えば、礼儀や建前が重んじられた時代の史料において、本音や真の意図を読み取ることは、AIにとって極めて困難なタスクであり続けます。
  2. ブラックボックス問題: LLMの分析プロセスはしばしばブラックボックス化しており、なぜAIが特定の感情や意図を推定したのか、その根拠を明確に追跡することが難しい場合があります。歴史研究においては、解釈の根拠を明確に示すことが不可欠であり、AIの出力結果を鵜呑みにすることは許されません。
  3. 史料批判の必要性: AIによる分析はあくまでツールであり、その出力結果は史料批判の俎上に載せられなければなりません。史料が持つバイアス、記述者の嘘や誇張、情報の欠落などを考慮せずにAIの分析結果を受け入れることは、誤った歴史解釈を導く危険性があります。AIが抽出したパターンや推定された感情・意図も、他の史料や当時の状況に関する知識と照らし合わせ、批判的に吟味する必要があります。
  4. 「解釈」の主体は誰か: 感情や意図の読み解きは、突き詰めれば解釈行為です。AIが大量の史料からパターンを抽出することはできても、それが歴史的な意味において何を意味するのか、どのような歴史的文脈に位置づけられるのかといった「解釈」を行うのは、歴史家自身の役割です。AIは解釈のための材料や視点を提供することはできても、歴史叙述そのものを担うことはできません。

結論:テクノロジーが変容させる史料「対話」の本質

AI/LLMは、歴史史料に内在する感情や意図を分析するための強力な新しいツールとなり得ます。大量の史料から傾向を抽出し、人間の目では見過ごしがちなパターンを提示することで、歴史家の「史料との対話」に新たな視点と効率性をもたらす可能性を秘めています。特に、これまでは 접근 が難しかった感情や意図の側面について、より多角的かつ客観的な分析を可能にするでしょう。

しかし、このテクノロジーは万能ではありません。歴史史料の複雑な文脈を完全に理解すること、感情や意図の機微を捉えることには限界があり、出力結果の根拠が不透明であるという課題も抱えています。したがって、AI/LLMは歴史家の「史料との対話」を代替するものではなく、あくまでその対話を深化させるための「触媒」として位置づけられるべきです。

歴史家には、AIが出力する結果を批判的に評価し、史料批判の原則に基づき吟味し、最終的な歴史的意味づけと解釈を行うという、本質的な役割が引き続き求められます。テクノロジーは「史料との対話」の形式や手段を変容させるかもしれませんが、過去の記述者との真摯な向き合い、その背景にある人間性への探求という、歴史学の根幹をなす営みは変わることはありません。AI/LLMを賢く活用し、その限界を理解することで、私たちは史料との対話をさらに豊かにし、過去への理解を深めることができるでしょう。これは、デジタル時代における歴史学の新たな挑戦であり、同時に大きな機会でもあると言えます。