対話の羅針盤

口承史・オーラルヒストリー研究におけるデジタル化とAI:声の史料との「対話」の新たな地平

Tags: 口承史, オーラルヒストリー, デジタルヒューマニティーズ, AI, 歴史研究, 史料分析, NLP

歴史研究は、過去の記録、特に文字史料との深い「対話」を通じて営まれてきました。しかし、文字に残されにくい人々の声、あるいは近代以降の記録媒体として重要な役割を果たす音声・映像による史料は、文字史料とは異なる特性を持ち、その分析には独特の課題が伴います。口承史やオーラルヒストリーは、文字史料が捉えきれない社会の側面や個人の経験を浮かび上がらせる上で極めて重要な史料群であり、その記録・保存・分析は歴史学の一角を占めています。

近年、これらの「声の史料」を取り巻く環境は、デジタル化とAI技術の急速な発展によって大きく変化しつつあります。アナログ録音テープはデジタルデータへと変換され、インターネットを通じて共有可能になり、さらに高度なAI技術がその内容分析に応用され始めています。こうした変化は、歴史家が口承史やオーラルヒストリーといった声の史料とどのように「対話」し、過去を理解するのかという根源的な問いに対し、新たな視座をもたらしています。

口承史・オーラルヒストリーの歴史研究における意義

口承史やオーラルヒストリーは、文字史料に比べてその収集に時間と労力を要し、また語り手の記憶の不確かさや主観性といった史料批判上の課題も伴います。しかし、それらは公的な記録やエリートの文書には現れにくい、人々の生活感情、社会構造の非公式な側面、周縁化された集団の経験などを捉える貴重な手段です。特に、近代以降の社会運動、地域社会の変容、災害経験、あるいは日々の暮らしといったテーマにおいて、オーラルヒストリーは不可欠な史料となっています。

歴史家は、語り手の言葉そのものだけでなく、声のトーン、話し方、沈黙、あるいはインタビュー時の環境など、文字起こしだけでは捉えきれない多くの情報から、当時の状況や語り手の心情を読み取ろうと努めてきました。これは、単なる情報の抽出にとどまらない、史料との多角的な「対話」に他なりません。

デジタル化が拓く史料活用の可能性

口承史やオーラルヒストリーの録音・録画史料のデジタル化は、その保存と活用の可能性を飛躍的に高めました。劣化しやすいアナログ媒体から高品質なデジタルデータへの変換は、史料の永続的な保存を可能にします。また、デジタル化された史料は、インターネット上のアーカイブを通じて世界中の研究者が容易にアクセスできるようになり、共有と共同研究を促進します。

さらに、デジタルデータは高度な検索や分析の対象となりえます。音声認識技術による自動文字起こしは、これまで手作業に頼るしかなかった文字化のプロセスを効率化し、大量の史料を短時間でテキスト化することを可能にしました。これにより、特定のキーワードやフレーズを含む発言を横断的に検索するといった作業が、現実的なものとなりました。

AI(特にLLM)による「声」の分析

デジタル化された口承史・オーラルヒストリー史料に対し、近年のAI技術、特に自然言語処理(NLP)や大規模言語モデル(LLM)の応用が試みられています。これは、史料との「対話」のあり方を大きく変えうる可能性を秘めています。

例えば、AIによる文字起こしは、以前に比べその精度が向上しており、編集・校正の手間を大幅に削減できます。また、文字起こしされたテキストに対し、トピックモデリングによる主要テーマの抽出、感情分析による語り手の感情傾向の把握、あるいは特定の出来事に対する複数の語り手の視点の比較といった分析が可能になります。

LLMは、さらに進んだ分析を可能にするかもしれません。例えば、長大なインタビュー記録の要約、特定の人物の発言スタイルの分析、あるいは特定の社会的慣習に関する複数の語り手の記述から共通のパターンや差異を抽出することなどが考えられます。AIは、これまで歴史家が個別史料の精読と類推に頼ってきた作業の一部を、データ駆動型のアプローチで支援する可能性があります。

AI活用の課題と歴史学的な検討事項

しかし、AIによる口承史・オーラルヒストリー分析には、技術的および歴史学的な多くの課題が存在します。

まず、技術的な側面では、音声認識の精度は話し方、方言、ノイズ、録音状態に大きく依存します。自動生成された文字起こしテキストは必ずしも正確ではなく、誤認識や曖昧な部分が含まれるため、歴史家による厳密な確認と修正が不可欠です。

より本質的な課題は、AIが「声」の持つニュアンスやコンテクストをどこまで捉えられるかという点にあります。AIはテキストデータとして情報を処理しますが、声色、間合い、感情の機微、あるいは語り手と聞き手の非言語的な相互作用といった要素は、テキスト化の過程で失われたり、AIが適切に解釈できなかったりする可能性があります。口承史・オーラルヒストリー史料が持つ豊かな「声」の情報を、AIがどのように扱い、あるいは見落とすのかは、史料批判の新たな焦点となります。

また、AIによる分析結果の解釈には、AIの学習データのバイアスが反映される可能性があります。特定の感情表現や語り口が、特定の属性や地域に偏って認識されるといった事態は避けねばなりません。AIが提示する分析結果を、歴史家は常に批判的な視点から評価し、オリジナルの音声・映像史料に立ち戻って検証する姿勢が求められます。AIはあくまで分析の「補助ツール」であり、最終的な解釈と歴史叙述の責任は歴史家にあります。

結論:未来の「対話」へ向けて

口承史・オーラルヒストリー研究におけるデジタル化とAI技術の進展は、これまで 접근 が難しかった大量の声の史料を分析し、歴史に新たな声を取り込む大きな可能性を秘めています。AIによる効率的な文字起こしや内容分析は、研究者の労力を軽減し、これまで見過ごされてきたパターンや関連性を発見する手がかりを提供するかもしれません。

しかし、これらの技術は、口承史・オーラルヒストリーの持つ複雑さ、多義性、そして人間的な温かさを完全に代替するものではありません。AIはテキストデータを処理する能力に長けていますが、「声」の持つ感情、意図、社会的コンテクストといった深層を理解するには限界があります。

歴史家は、デジタルツールやAIを積極的に活用しつつも、その限界を十分に認識し、史料の真正性や解釈の妥当性を常に問い続ける必要があります。デジタル化された「声」の史料とAIによる分析結果を、従来の歴史学的な手法と組み合わせることで、初めてその真価を引き出すことができるでしょう。これは、過去の「声」との対話のあり方がテクノロジーによって変容しつつある現代において、歴史家が追求すべき新たな「対話の羅針盤」となるはずです。テクノロジーを批判的に使いこなし、「声」の豊かな世界を歴史の中に位置づけるための探求は、今始まったばかりと言えるでしょう。