対話の羅針盤

歴史研究の核心、仮説構築:AI/LLMは『問い』との対話をどう支援しうるか

Tags: 歴史学, AI, LLM, 仮説構築, デジタルヒューマニティーズ, 史料研究

歴史研究における仮説構築の営み

歴史研究は、過去に対する「問い」から始まり、史料との対話を通じて仮説を構築し、検証していく知的営為です。この仮説構築のプロセスは、単なる情報の羅列や時系列の整理にとどまらず、歴史家の深い知識、鋭い直感、そして論理的な思考が複雑に絡み合う、研究活動の核心をなす部分と言えます。研究者は、膨大な史料の海から特定の情報を抽出し、異なる史料間の関連性を見出し、先行研究と自らの発見を結びつけながら、過去の出来事や構造、人々の思考や行動に関する説明モデル、すなわち仮説を練り上げていきます。

このプロセスは、歴史家が過去と繰り広げる、ある種の「対話」と見なすことができます。史料は過去からの語りかけであり、研究者はその声に耳を傾け、問いを投げ返し、自らの解釈(仮説)を提示し、再び史料や他の研究者の見解と照らし合わせながら、その仮説を修正・深化させていきます。この対話は、時として孤独な内省の形を取り、時として研究共同体との活発な議論を通じて行われます。

しかし、現代においては、デジタル化された史料の爆発的な増加や、学際的なアプローチの発展により、研究者が向き合うべき情報量はかつてないほど増大しています。こうした状況下で、いかに効率的かつ創造的に仮説を構築し、その精度を高めていくかは、現代の歴史家にとって重要な課題の一つとなっています。

歴史上の「問い」と「仮説」の対話形式の変遷

歴史学における「問い」と「仮説」の対話形式は、史料の性質、アクセスの方法、そして当時の学術環境によって常に変化してきました。例えば、古典古代の歴史家は、口承や限られた文書、遺物といった史料に基づき、自らの観察や聞き取り、推論を加えて叙述を行いました。中世における修道院や宮廷の書記による年代記は、特定の視点から編纂された史料に依拠し、しばしば特定の目的に沿った仮説(歴史解釈)を内包しています。

近世以降、印刷術の普及や公文書館の整備が進むにつれて、より広範で体系化された史料へのアクセスが可能となり、実証的な歴史研究が発展しました。ランケに代表される史料批判の確立は、史料の信頼性を吟味し、より確固たる証拠に基づいて仮説を構築することの重要性を示しました。この時代における仮説構築は、丹念な史料読解と、学会や出版物を通じた研究者間の厳しい批判的対話の中で洗練されていきました。

20世紀に入ると、社会史や文化史、あるいは計量史学といった新しい研究分野の台頭により、「問い」の対象は多様化し、史料の解釈方法も多岐にわたるようになりました。フロンド派のアナール学派は、集合的な無意識や長期的な構造といった、従来の政治史とは異なるレベルでの仮説構築を試みました。こうした知的営みは、研究者個人の深い洞察とともに、学派内部や関連分野の研究者との継続的な対話の中で育まれてきたと言えます。

そして現在、私たちはデジタルヒューマニティーズの時代に生きています。大量のデジタル史料、高度な情報検索・分析ツール、そしてAI/LLMのような新しい技術が登場し、歴史研究における「問い」の立て方や仮説構築の「対話」のあり方に、新たな可能性と課題をもたらしています。

AI/LLMは仮説構築の「対話」をいかに支援しうるか

AI、特に大規模言語モデル(LLM)は、その自然言語処理能力と膨大なデータからのパターン学習能力により、歴史研究における仮説構築プロセスにおいて、いくつかの形で歴史家との「対話」を支援しうる可能性を秘めています。

  1. 史料からの情報抽出と関連性発見: LLMは、デジタル化された大量の史料テキストから、特定のキーワード、人名、場所、出来事、あるいはより複雑な概念や感情を抽出するのに役立ちます。さらに、異なる史料断片間に存在する潜在的な関連性やパターンを、人間の研究者が見落としうるスケールで洗い出す可能性があります。これにより、歴史家は仮説の出発点となる興味深い事実や関係性を効率的に見つけ出すことができるかもしれません。

  2. 先行研究の参照と俯瞰: 学術論文や書籍のデータセットを学習したLLMは、特定のテーマや史料に関する広範な先行研究を網羅的に参照し、主要な議論や対立する見解、未解明の論点などを要約・提示することができます。これは、研究者が自身の「問い」を学術的な文脈の中に位置づけ、独創的な仮説を立てる上で強力な支援となり得ます。

  3. 「問い」や仮説のブレインストーミング支援: AI/LLMは、与えられた史料やテーマに基づき、多様な角度からの「問い」や暫定的な仮説を生成する手助けをする可能性があります。例えば、「もし〇〇が異なっていたら、何が起こり得たか?」「この史料の裏側にはどのような意図が隠されているか?」といった問いかけをAIが行うことで、歴史家の思考を刺激し、新たな視点を提供することが考えられます。これは、研究者が自己の内面や共同体との対話に加えて、AIという外部の存在との擬似的な「対話」を通じて、発想を広げる機会となり得ます。

  4. 仮説の検証プロセスにおける支援: 構築された仮説が、既存の史料や研究成果と矛盾しないか、あるいはどのような史料で検証できるかをAI/LLMに問うことができます。AIは、仮説を検証するために必要な史料の種類や、反証となりうる情報を探索するヒントを提供するかもしれません。これは、仮説と史料との間の「対話」を、より体系的かつ効率的に進めることを支援します。

これらの可能性は、AI/LLMが歴史家の思考や分析プロセスを完全に代替するということではありません。むしろ、歴史家が持つ高度な専門知識、批判的思考力、史料批判の技術、そして何よりも歴史に対する深い洞察力と、AIの情報処理能力を組み合わせることで、仮説構築という創造的なプロセスを促進し、研究の質を高めるツールとして機能することが期待されます。

技術的側面と歴史家の役割:ツールとしてのAI/LLM

AI/LLMは強力なツールですが、その機能には限界があります。LLMは学習データ内の統計的なパターンに基づいて応答を生成するため、事実誤認(ハルシネーション)を引き起こす可能性があります。また、史料の微妙なニュアンスや、歴史的文脈に深く根ざした含意を完全に理解することは困難です。史料批判や、異なる史料間の複雑な関連性の真偽を判断する能力は、依然として人間の歴史家独自の専門性です。

したがって、AI/LLMが生成した情報や提案は、常に批判的な吟味の対象としなければなりません。AIは、歴史家の「問い」に対する答えを直接与えるものではなく、むしろ、歴史家が自らの力で答えを見出すための手助けをする存在として捉えるべきです。

歴史研究における仮説構築の「対話」は、最終的には歴史家自身の内面、そして研究共同体との間で行われるものです。AI/LLMは、この対話のプロセスを豊かにし、新たな刺激や情報を提供するための有効なツールとなり得ますが、対話の主体はあくまで歴史家自身であり、最終的な仮説の判断と責任は研究者に帰属します。

結論:歴史家とAI/LLMの新たな対話の可能性

歴史研究における仮説構築は、過去からの「問い」と歴史家の知識・直感・論理が織りなす複雑な「対話」のプロセスです。歴史学の歴史において、この対話形式は史料状況や学術環境の変化に応じて変容してきました。

現代において、AI/LLMのような新しいテクノロジーは、この核心的なプロセスに新たな光を投げかける可能性を秘めています。AI/LLMは、大量の情報処理、パターン認識、示唆の生成といった面で、歴史家の仮説構築を多角的に支援するツールとなり得ます。これにより、研究者はより効率的に史料を扱い、広範な視点から「問い」を深め、多様な仮説を探求することができるようになるかもしれません。

しかし、AIは万能ではありません。史料批判の必要性や、歴史的解釈における人間の判断の重要性は変わりません。歴史家は、AI/LLMを批判的な視点を持って活用し、その限界を理解した上で、自らの研究に統合していく必要があります。

AI/LLMを単なる情報処理システムとしてではなく、仮説構築という創造的プロセスにおける新たな「対話相手」として捉え、その示唆や提案を歴史家の深い知識や洞察と組み合わせることで、歴史研究は新たな段階に進むことができるでしょう。このテクノロジーとの建設的な「対話」を通じて、私たちは過去への理解を深め、より豊かな歴史叙述を生み出していくことができると期待されます。