歴史学における「解釈」の深化:AI/LLMは史料と研究者の対話をどう媒介するか
歴史学における「解釈」の深化:AI/LLMは史料と研究者の対話をどう媒介するか
歴史学という営みは、過去の痕跡である史料と向き合い、そこから意味を紡ぎ出し、歴史像を構築していくプロセスです。このプロセスは、しばしば「史料との対話」あるいは「過去との対話」と表現されます。しかし、歴史研究における対話は、史料との一対一の関係に留まるものではありません。先行研究との批判的な対話、同時代を生きる研究者コミュニティ内での議論、そして時には異分野の研究者や一般社会との対話を通じて、歴史認識は深化し、洗練されていきます。
近年、大規模言語モデル(LLM)に代表される人工知能(AI)技術が目覚ましい発展を遂げています。これらの技術は、テキストデータの処理、関連情報の検索・抽出、あるいは文章の生成といった領域で、かつてない能力を示しています。このような技術革新は、歴史学の研究方法や学術コミュニケーション、ひいては歴史学における「対話」のあり方にどのような影響を与えうるのでしょうか。本稿では、AI/LLMが歴史学における「解釈」という核心的なプロセスにおいて、史料と研究者間の対話をいかに媒介しうるか、その可能性と課題について考察いたします。
歴史学における解釈プロセスの多層性
歴史学における解釈は、決して単線的で単純な作業ではありません。それは、断片的でしばしば矛盾を含む史料の海の中から、関連する情報を丹念に拾い上げ、批判的に吟味し、文脈の中に位置づけ、そして自らの問いに対する「答え」あるいは新たな「問い」を見出していく多層的な営みです。
このプロセスは、研究者個人の内省的な思考と、他者との対話という二つの側面を含んでいます。研究者は、史料が語る内容だけでなく、その「沈黙」や「不在」にも耳を澄ませます。史料がなぜ、誰によって、どのような意図で生み出されたのか。どのような情報が意図的に、あるいは偶発的に失われたのか。こうした問いかけは、史料に対する一方的な読み込みではなく、史料が持つ可能性を最大限に引き出そうとする能動的な「対話」と言うことができます。
さらに、研究者は自らの解釈を学術コミュニティの中で表明し、批判や異論に晒すことで、その解釈を検証し、修正し、あるいは放棄します。査読付き論文、学会発表、研究会での議論などは、まさに学術的な「対話空間」であり、ここでは論理的な整合性、論拠の提示、そして他の研究者への敬意といった規範が求められます。歴史学における「解釈」は、こうした個人的な内省と共同的な対話の螺旋的な往復を通じて深化していくのです。
AI/LLMは「対話」をどう媒介しうるか
AI/LLMは、この多層的な解釈プロセスにおける「対話」を、いくつかの側面から媒介する可能性を秘めています。
1. 史料との対話の深化
AI/LLMは、膨大なデジタル化された史料データの中から、特定のキーワード、概念、あるいは関連する事象を高速に検索・抽出することを可能にします。これは従来のデータベース検索を凌駕し、史料に埋もれた微細な情報や、人間が見落としがちな関連性を示唆することが期待できます。
例えば、特定の人物や概念が史料中でどのように言及されているか、その頻度や文脈の変化を大規模に分析する手助けとなるでしょう。また、AIを用いた感情分析は、史料の記述に込められた感情的なトーンを量的に把握する一助となるかもしれません。さらに、異なる種類の史料(公文書、日記、文学作品など)を横断的に分析し、これまで結びつきが見出されにくかった情報間の関連性を示す可能性も考えられます。
これにより、歴史家は史料に対してより多様な「問い」を投げかけ、AIがその問いに対する「応答」の候補(関連情報、パターン、抽出された記述など)を提示するという形で、史料との対話をより豊かにすることができます。ただし、AIの出力はあくまでデータに基づいたパターン認識や統計的な推論であり、その史料が持つ独自の文脈、執筆者の意図、あるいは歴史的な背景を完全に理解しているわけではありません。AIからの「応答」は、歴史家が批判的に吟味し、自身の深い歴史学的知識と照らし合わせるべき「示唆」や「手がかり」として捉える必要があります。
2. 研究者間の対話の活性化
AI/LLMは、研究者間の対話を間接的に媒介する可能性も持っています。
例えば、自身の研究テーマに関連する最新の先行研究や、異分野での議論動向をAIが要約・提示することで、研究者は自身の研究をより広い学術的地平に位置づけやすくなります。これにより、他の研究者との議論において、新たな視点や論点を取り入れやすくなるでしょう。
また、オンラインの共同研究プラットフォームや学術SNSなど、デジタルツールと組み合わせることで、AIが研究者間の議論の場を設営したり、過去の議論の構造を分析したりすることも考えられます。例えば、特定の論文に対する様々な研究者のコメントや批判を構造化して提示することで、議論の全体像を把握しやすくし、新たな参加者がスムーズに議論に入れるよう支援するかもしれません。
しかし、学術的な対話には、単なる情報交換や論点の提示に留まらない、人間的な側面が不可欠です。相手の主張に真摯に耳を傾ける姿勢、建設的な批判、異論を排除しない寛容さ、そして何よりも研究者間の信頼関係が、対話の質を決定します。AIはこうした人間的な関係性を構築することはできません。AIが媒介する対話は、あくまで情報面や形式面の支援に限定されるべきであり、その本質は研究者同士の主体的な関わりに委ねられるべきです。
3. 自己との対話(内省)の補助
AI/LLMは、研究者が自身の研究アイデアや論考について内省を深める際の補助となりうる可能性も秘めています。
例えば、草稿に対してAIにフィードバックを求めたり、自身の主張に対する想定される反論を生成させたりすることで、論理の飛躍や根拠の不足に気づく手助けになるかもしれません。また、研究テーマに関する様々な角度からの問いをAIに投げかけ、多様な視点を得ることで、思考の幅を広げるきっかけとなることも考えられます。
これはある種の「自己との対話」であり、AIがその対話の相手役を形式的に務めるということです。しかし、歴史家の創造的なひらめき、長年の経験に基づく直感、あるいは倫理的な判断といった側面は、AIが代替できるものではありません。AIの補助は、あくまで研究者自身の深い思考と批判的な検討に服するものであるべきです。
課題と倫理的考察
AI/LLMの活用は、歴史学における「解釈」と「対話」に新たな可能性をもたらす一方で、乗り越えるべき課題も多く存在します。
最も重要なのは、AIの出力に対する史料批判と同様の厳密な批判的吟味が必要であるということです。AIは学習データに含まれるバイアスを反映する可能性があり、その生成する情報や示唆が無謬である保証はどこにもありません。AIの提示するパターンや関連性が、歴史的な事実や文脈から乖離していないか、常に検証する姿勢が求められます。技術への過信や依存は、歴史家の批判的思考力を鈍らせ、誤った歴史認識を生み出すリスクを孕んでいます。
また、史料が持つ微細なニュアンス、行間、非言語的な要素、あるいは特定のコミュニティ内でのみ通用する隠語といった機微は、現在のAI/LLMが捉えきることが難しい領域です。史料の表面的な情報だけでなく、その背後にある人間の意図や感情、社会構造といった深いレベルの理解には、歴史家の専門的な知識、経験、そして人間に対する深い洞察が不可欠であり、これはAIが代替できない歴史学の核心部分です。
さらに、学術コミュニケーションにおけるAIの活用は、倫理的な問題も提起します。例えば、AIによる文章生成は、研究者のオリジナリティや貢献を曖昧にする可能性はないか。AIが生成した「論点」に基づいた議論は、真に創造的な対話たりうるのか。学術的な信頼性や公正性を維持するために、AIの利用ガイドラインの策定や、その利用範囲についての慎重な議論が求められます。
結論:媒介としてのAI、そして人間的な対話の価値
AI/LLMは、歴史学における解釈プロセスにおいて、史料と研究者間の対話を媒介する強力なツールとなりうる可能性を秘めています。史料分析の効率化、新たな関連性の提示、学術情報の整理など、研究者の負担を軽減し、思考の幅を広げる手助けとなるでしょう。これにより、研究者はより高度な解釈や概念化、そして他の研究者との質の高い議論に注力できるかもしれません。
しかし、AIはあくまで「媒介」であり、歴史学の核である「解釈」そのものを担うことはできません。歴史学における解釈は、単なる情報の処理やパターン認識ではなく、過去の人間に対する共感、倫理的な判断、そして未来への責任といった、人間的な深い洞察に基づく営みです。そして、学術的な知は、研究者コミュニティにおける真摯な対話を通じて、批判的に検証され、発展していきます。
テクノロジーを賢く活用しつつ、歴史家自身の批判的思考力、倫理観、そして他者との人間的な対話の重要性を改めて認識すること。これこそが、AI時代において歴史学がその学術的厳密性と社会的な意義を維持していくための鍵となるでしょう。AI/LLMを、過去との対話、自己との対話、そして他者との対話をより豊かにするための「羅針盤」の一つとして捉え、その可能性を追求していくことが求められていると言えます。