歴史学の研究成果発表におけるAIの影響:論文・学会での「対話」はどう変わるか
はじめに
歴史学における研究活動において、その成果を発表し、共有することは極めて重要なプロセスです。論文の執筆、学術雑誌への投稿、学会での発表、そしてそれらに対する質疑応答や議論は、研究者間の「対話」を通じて知識を精緻化し、学問領域を発展させるための核となります。しかし近年、AIをはじめとする最新テクノロジーは、この長らく培われてきた学術コミュニケーションのあり方に変革をもたらしつつあります。本稿では、歴史学の研究成果発表という側面におけるテクノロジー、特にAIの影響に焦点を当て、論文執筆や学会発表の形式、さらにはそこで行われる「対話」の本質がどのように変わりうるのかを考察します。
歴史学における成果発表の変遷
歴史学の研究成果が共有されてきた歴史は、メディア技術の発展と密接に関わっています。写本の時代から活版印刷の登場は、論文や書籍という形式での知識共有を飛躍的に拡大し、距離を超えた学術「対話」を可能にしました。近代以降、専門分野ごとの学会誌の創刊や学会の定期開催は、研究成果の公表とそれに基づく集団的な議論の場を組織化しました。これらは、研究者が自身の知見を論理的に構築し、他者からの批判や問いかけに応答するという、「対話」の形式を定着させてきた過程と言えます。
20世紀後半以降のデジタル化は、この流れをさらに加速させました。学術雑誌の電子化、オンラインデータベースの普及、そしてインターネットを通じた情報共有は、論文へのアクセスを容易にし、研究者間のコミュニケーション速度を劇的に向上させました。しかし、これらの変化は主として情報の「流通」や「アクセス」の形式を変えた側面が強く、論文の構造や学会発表の基本的な形式、そしてそこに求められる論理性や批判的思考といった「対話」の本質的な要素は、比較的安定していたと言えるでしょう。
AIがもたらす研究成果発表への影響
近年のAI、特に大規模言語モデル(LLM)の急速な進化は、研究活動そのもの、そしてその成果発表のプロセスに質的な変化をもたらし始めています。
1. 論文執筆支援ツールとしてのAI
AIは現在、論文執筆の様々な段階で活用され始めています。 * 文献調査・要約: 膨大な先行研究を高速に検索し、関連性の高い文献を抽出・要約する。 * 構成案作成: 研究テーマに基づき、論理的な構成案を提案する。 * ドラフト作成・文章校正: 特定の情報を基に文章のドラフトを作成したり、文法・スタイル・表現の校正を行ったりする。 * 翻訳: 多言語での情報共有を容易にする。
これにより、執筆プロセスの効率化が期待される一方で、課題も顕在化しています。AIが生成した文章のオリジナリティ、引用の正確性、そして何よりも研究者自身の「思考の痕跡」が薄れてしまう懸念です。論文が単なる情報の集合ではなく、研究者個人の史料や先行研究との「対話」の記録であるとすれば、AIによる過度な支援は、この内的な対話を阻害する可能性も指摘されています。
2. 学会発表とAI
学会発表の場でも、AIやデジタルツールの活用は進んでいます。 * プレゼンテーション補助: 発表資料の作成支援(デザイン、構成)、スライド内の情報要約やキーワード抽出。 * オンライン発表: Zoomなどのツールを用いたオンライン会議システムが普及し、場所の制約なく発表・聴講・質疑応答が可能になった。AIによるリアルタイム翻訳や字幕表示が、国際学会でのコミュニケーションを支援する。 * 質疑応答支援: 発表内容に関する聴講者からの質問を収集・整理したり、想定される質問への回答を事前に準備したりする際にAIを活用する可能性。
オンライン学会の普及は、地理的な障壁を取り払い、より多くの研究者が参加できる機会を増やしました。これは学術コミュニティにおける「対話」の裾野を広げる positive な側面です。しかし、非対面でのコミュニケーションが増えることで、発表者の微細なニュアンスの伝達や、偶発的な議論から生まれる新たな知見の発見といった、対面ならではの「対話の質」が失われる可能性も議論されています。
変容する「対話」の本質と歴史学者の役割
テクノロジーの進化は、学術的な「対話」の形式や速度を大きく変えています。かつては手紙や印刷物、対面での会議が中心であった対話は、デジタル化、そしてAIの介在により、より迅速に、より広範に、そして時にはAIを媒介として行われるようになっています。
この変容の中で、歴史学者はどのような役割を担うべきでしょうか。最も重要なのは、テクノロジーを単なる効率化のツールとして捉えるのではなく、それが学術「対話」の本質にどのように作用するのかを深く理解し、批判的に向き合う姿勢です。
論文執筆においては、AIを文献検索や文章校正といった支援ツールとして活用しつつも、史料解釈、論の構築、そして独自の視点の提示といった知的創造の中核部分は、あくまで研究者自身の内的な「対話」と考察に基づいて行う必要があります。AIが生成する情報は、史料と同様に「批判的に検討すべき対象」として扱う必要があるでしょう。
学会発表においては、オンラインツールの利便性を享受しつつも、質疑応答においてAIに頼るのではなく、自身の研究に対する深い理解に基づいた誠実な応答を心がけることが、信頼性ある学術「対話」には不可欠です。非言語的な要素が伝わりにくいオンライン環境では、かえって明確かつ論理的な説明能力がより一層求められるかもしれません。
まとめ
AIは歴史学の研究成果発表のプロセスに多大な影響を与えつつあり、その形式や効率を大きく変える可能性を秘めています。論文執筆や学会発表といった学術「対話」の場は、テクノロジーの進化によって物理的・時間的な制約から解放されつつあります。
しかし、このような変化の中でも、学術的な「対話」の本質、すなわち真理の探求、論理的な思考、批判的検討、そして相互尊重に基づく知の共有という営みは変わりません。歴史学者は、テクノロジーを賢く活用しつつも、その限界を理解し、研究における独自の洞察力、史料と向き合う誠実さ、そして他者との建設的な「対話」を通じて、学問の発展に貢献していくことが求められています。テクノロジーは学術「対話」の羅針盤となりえますが、その針が進むべき方向を示すのは、歴史家自身の知性と倫理であると言えるでしょう。